高度経済成長と失われた30年は、ともに日本人の国民性の帰結である

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日本の昔話で刷り込まれる国民性

悪知恵を働かせて得をしようとすると酷い目に合う。私たち日本人は、幼い頃からこのように教えられてきた。たとえば、誰しもが聞いたことのある昔話「サルカニ合戦」がある。柿の木の種を拾ったカニが、サルの口車に乗せられて、自分の持っていたオニギリと柿の木の種を交換してしまう。カニは一生懸命に柿の木を育て、ようやく柿の木に実が生った頃に、カニは木に登れず、実を取ることができないことに気づく。そうこうしていると、先程のサルが木に登って柿を食べてしまうのだ。酷い目にあったカニは、臼などの仲間とともにサルを集団で懲らしめるという話である。これは、悪知恵を働かせて自分だけ得をしようとすると痛い目をみるという教えである。

「おむすびころりん」も同じような話だ。或るところにおじいさんが居て、おむすびを食べようとした時におむすびが転がって穴の中に落ちてしまう。穴の中にはねずみの御殿があり、おむすびをもらった(落ちてきたおむすびをねずみが勝手に食べただけだが)お礼にと、おじいさんは小槌をもらい、家でそれを振ってみると金の小判がたくさん出てくる。それを聞いた悪いおじいさんは、同じようにねずみの穴に入り、今度はねずみの御殿にある財宝を独り占めしようとしてねずみを追い払ってしまったら、おじいさんは穴から出られなくなってモグラになったという話である。こちらも悪知恵を働かせて自分だけ得をしようとすると痛い目をみるという「サルカニ合戦」と同じ教訓である。

国民みんなが幼少期からこうした道徳を教え込まれることで、これらは日本国民共通の規範と成りおおせた。私たち日本人は、悪知恵を働かせて得をしようとする行為を許さない民族なのである。しかし、グローバル化とともにこの教訓は仇となっているように感じている。「サルカニ合戦」のサル、「おむすびころりん」の悪いおじいさんは、グローバル市場に出ればたくさん存在しているからだ。しかも彼らは痛い目を見るどころか、しっかりと利益を享受し、むしろカニや良いおじいさんが出し抜かれて残念なことになっているように思う。

グローバルの価値観は日本人にとってはえげつない

もちろん、犯罪になるようなことをすれば、それはグローバル市場でも問題となる。しかし、情報の格差を利用して人を出し抜いて設けるといったことは、基本的には犯罪でない。人の真似をして自分のほうが設けるといったことも同様だ。犯罪でないのなら、日本人から見るとずる賢いなと感じたとしても、グローバルではそれらは立派な知恵と行動力だと認められ、それによって利益を得られたのであれば、褒めたたえられる勝者ということになる。

外国の人たちは、私たち日本人と同じ価値観では生きていない。彼らは、知恵を働かせて得をすることがいけないことだとは見做さない。犯罪でなければ、知恵に良いも悪いもなく、やらなければやられるという精神で真剣な勝負を挑んでいる。日本のように、和を以て貴しとなすという精神がないこうした地域では、知恵をもって人に抜きんでることができない者は凡庸と見做される。日本人は知恵がないとは言わないが、グローバル市場ではカニであって良いおじいさんであり、外国人にとっては単純に与しやすい相手になってしまっている。

日本に根付いた「悪知恵を働かせて得をしようとすると酷い目に合う」という価値観は、良い表現でいえば和を以て貴しとなすであり、悪くいえば出る杭は打たれるだ。和を持って貴しとなすが上手くいくのは、経済でいえば成長期の間だけである。みんなが同じように1つの目標に向かって動くことができれば、成長は加速度的に進む。しかし、それから成長が止まって成熟期に入ると、今度はこれまでの行動を批判し、やり方を見直すような行動が必要となる。こうなると、出る杭は打たれるという文化は非常にやっかいなのだ。失われた三十年は、この国民性の結果に他ならないと思っている。つまり、日本にとっては運命だったのである。