出世したいサラリーマンなら権力者の太鼓持ち程度なら朝飯前という事実

出世というのは人が決めるもの

年末は多くの会社で従業員の評価が行われる。サラリーマンであれば、毎年一、二回は経験するもやもやした期間である。以前に勤めていた会社の同期の友人たちと先日忘年会をやったのだが、まだその会社に勤めている友人たちは「今年も誰が良い評価だった」とか「誰が出世したらしい」という話で、年末の酒席に花を咲かせていた。

大概、こうした話題になると愚痴をこぼす者がいる。彼らの言い分は「上司は分かっていない」とか「あいつは過大評価されてる」といった不満の類である。私の友人たちも歳を重ねて相応のポジションになってきていることもあり、ビールで酔いがまわった友人は、涙ぐましい彼の管理職としての努力と、恵まれない自分についての悲哀を述べていた。しかし、そうしたちょっと恥ずかしい愚痴を人様に披露する前に、彼らは知っておくべきことがある。それは「出世というのは人が決めるもの」だということである。

この事実について心の底からは理解できている人は少ないように思う。基本的に、サラリーマンの社会は、能力ある者が出世するという場所ではない。確かに、能力が全くないと困るわけだが、年功序列がなくなり、能力評価になってきたといっても、能力だけでは出世しない。なぜなら、上司が誰を出世させるべきかを決めるのであり、上司も人なので、感情によって決めているからに他ならない。候補者たちの能力自体は、誰を出世させるかを判断するための一つの要素でしかない。基本的に人というのは、自分の存在を脅かす部下を好まない。いくら能力があっても、自分のポジションを奪いかねない者を自分の後釜に就かせようと思う上司などいない。

上司は、能力よりも自分に盾突かない部下を出世させる

出世すればするほど、能力以外の要素で判断される傾向は高まる。つまり、平社員の出世については能力である程度決まるが、管理職になり、経営層になりといった具合に役職が上がるほど、誰が出世するかは政治で決まるようになる。冒頭の私の友人たちも管理職以上であるから、そういう傾向が強くなっているにも関わらず、能力があれば出世すると未だに思っていることが間違いなのである。

たとえば、千人の中から百人を選ぶような平社員の出世競争は、能力がある者が勝つだろう。それは、選ぶ側(上司たち)にとって、その百人は自分たちの地位を脅かさないからだ。一兵卒が二兵卒になっても、二兵卒が権力ある上司たちを脅かす存在にはならない。それなら、能力がある者のほうが上司たちにとっても都合が良いから、そうしたものが二兵卒になれるのである。

しかし、三人の中から自分の側近や後釜を一人選ぶという選択になれば、上司たちにとって能力だけで選ぶわけにはいかない。三人の中で能力は一番ある者でも、自分の言うことを聞かなさそうな者を出世させて権力を持たせてしまったら、自分が大変な目にあう可能性が高まるからだ。そうであれば、実力は劣るが、自分に楯突かない者を出世させたほうが自分にとって安全ということだ。

一流は二流を好み、二流は三流を好む、と思う

ここまで書いてきて、なんともダサい話である。サラリーマンというのは、良いポジションになるほど保守的になるのだ。まるで下克上を狙っている実力ある部下を押さえつけている武将のようだが、こういうことは、歴史の中だけで起こることではない。誰を出世させるべきかという社会環境の中での盛大なイベントは、選ぶ側の人間の保身を最重要指標として繰り広げられる。

スティーブ・ジョブズの名言で、一流は一流を好み、二流は三流を好むということがある。二流が三流を好むというのは、まさに自分を脅かす存在を好まない人間の本性を表している。だが、私の見立てによると、一流は一流を好むというのも疑わしいところだ。一流が二流を好むという場面は、さもありなんではなかろうか。

結局のところ、サラリーマンで出世を一番に考えて生きていくのであれば、中堅までは実力で勝ち上がり、それ以上は力のある上司の太鼓持ちをして、言われたことを頑張ってこなす忠犬を演じることが目標達成の近道である。もし、上司とウマが合って、自分にそこそこの能力があったなら、サラリーマン社長にだってなれるかもしれない。

しかし、太鼓持ちをするのもけっこうハードである。世の中には、自ら進んで他人の太鼓持ちをしたい人などいないはずだ。そういうこともあって、これも私の見立てでは、ある程度まで出世したら、その後は無理せず、周囲の人と協調しながら、会社に定年までしがみつこうという腹づもりの管理職が多い。それが労働生産性に影響するのは、こちらの記事のとおりと思いながら、赤ら顔の友人の話は右から左に抜けていくのであった。