【三国志】蜀の丞相 諸葛亮とはどんな人物だったのか【才能と人徳において名高い名相】

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今日は、中国の歴史の中でも最高の評価を受け、世界的にも才能と人徳において名高い諸葛亮について、詳しく見ていきたいと思います。

まず、彼が生まれたのは有名な三国志の時代です。中国の漢の皇帝の権威が失墜し、皇帝の親族が権力を握り、中央の政府は賄賂が横行して腐敗、地方では有力な諸侯(江戸時代の大名みたいなものです)たちが権力を握り、黄巾の乱(184年に勃発)の後に群雄割拠の様相に入っていく時代です。

有名な諸侯といえば、袁紹や孫堅、曹操といったところで、彼らは挙兵して戦いを勝ち抜き、実権を握っていく中、漢の皇帝の子孫を名乗る劉備も漢の再興を誓って挙兵します。

その劉備は、曹操らに比べてまだ非常に小さい存在であった時期に、才気ある人材の登用を目指す中で、徐庶という才人から、当時はまだ無名の諸葛亮のことを聞きつけます。

そして、劉備は当時40歳、諸葛亮はまだ20歳というときに、当時は名を上げていた劉備のほうから諸葛亮のもとを三度も訪れます。これを三顧の礼といい、諸葛亮は天下三分の計を説くとともに、劉備に仕えることを決意します。

これより、時代は大きく動き、三国時代に入っていくのです。

その後、劉備とともに蜀を建国して丞相となり、劉備の死去後もその子の劉禅をよく補佐し、劉備の願いである漢の再興に向けて、逆賊である魏を倒すために北伐を行い、志半ばで五丈原に倒れた英雄の人生を追っていきたいと思います。

諸葛亮の年表

181年:徐州に生まれる(実際の出生地は不明)。以後、荊州で弟と共に晴耕雨読の生活をする。自らを管仲・楽毅に比する。

200年(19歳):三顧の礼を受けて劉備に仕える。以後、荊州の劉表に劉備たちとともに身を寄せる。

208年(27歳):曹操が荊州に入ったため、魯粛とともに孫権を説得し、孫劉同盟を結ぶ。その後、赤壁の戦いで孫劉同盟が勝利する。

211年(30歳):劉備とともに入蜀する。

214年(33歳):蜀を平定して軍師将軍・署左将軍府事となる。蜀の法律である蜀科を制定。

219年(38歳):関羽が呂蒙に敗れ、荊州が呉に奪われる。

220年(39歳):劉備が即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相(蜀のNo.2)・録尚書事となる。

222年(41歳):関羽を殺された劉備は孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが大敗する。

223年(42歳):劉備が62歳で死去。諸葛亮は劉禅を補佐。

225年(44歳):益州南部四郡を平定。

227年(46歳):諸葛亮は北伐を決行。(北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名)

234年(53歳):第5次北伐の際に五丈原で病のため死去。(当時は数え年を使っているので公式には54歳。)

諸葛亮の評価

諸葛亮の評価を考えるにあたっては、後世に色々と分析が行われていますが、やはり当時に生きていた人物たちからの評価を見ることが良いでしょう。当時を知るものとして、最も参考になるのは、正史三国志の執筆した陳寿です。

陳寿は、以下のとおり、諸葛亮へ最大の評価を行っています。

時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する。

一方で、北伐が上手く行かなった点については、以下のような評価となり、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっています。

毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか。

諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなかった。諸葛亮の才は興業を成した管仲・蕭何に匹敵した。では敵のほうが兵数が多く、王子城父、韓信のような名将もいなかった為、北伐は成功しなかったであろうか。魏に対する北伐が成功しなかったのは天命であり、人智が及ぶところではなかったのだ。

一方、軍事面に関しては、諸葛亮の天敵であった魏の軍師、司馬懿でさえも、諸葛亮の没後の陣形跡を眺めながら「天下の奇才なり」と永らく戦った敵でありながら、その軍才を敬意を込めて賞賛しています。また、司馬懿は諸葛亮に手紙を出して「黄権(魏に降伏した蜀の将軍)は快男児です。彼はいつも、あなたのことを賛美し話題にしています」とも述べています。

また、諸葛亮から蜀を託された才人たちからも「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。丞相でさえ中原を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語られるなど、大いに賞賛されています。

正史と三国志演義の違い

三国志は、正史(本当の事実に基づいた文書)と三国志演義(三国志を面白くするために後世で書かれた小説)で異なる点が多々あります。三国志演義は、中国の明代(1368年 - 1644年)に書かれた小説であり、三国志時代の事実を踏まえてそこから面白くするために一部の事実を変えたり、大きな脚色が加えられたりしています。

三国志演義は大変人気があり、現代においてもドラマや小説によくなっています。一般の人が知っている三国志の内容というのは、この三国志演義に基づいているため、実際は史実と異なる理解が広まっているケースは多いです。

その史実と異なる歴史観の一つに、諸葛亮のイメージがあり、三国志演義では諸葛亮を妖術まで使う軍師として描写されていますが、正史からは特に劉備が死去する前は軍事面より政治面での尽力をしていることが分かります。劉備の死去後は丞相である諸葛亮に全ての責任が重くのしかかったため、軍事面でも陣頭指揮を取るようになったというのが正確な理解と言われています。

北伐は無理があったんじゃないかという点は、目先のことだけを見る蜀の役人たちからはよく意見として出たと思います。

しかし、諸葛亮は、北伐をせねば、逆に蜀は魏によっていずれ滅ぼされてしまうということを予見していました(実際、諸葛亮の死後から約30年後、蜀は魏によって滅ぼされてしまいます)。そのために、北伐をせざるを得ない状況だったのです。

もちろん、諸葛亮は、自分が生きているうちは蜀の国力を整え、後継者に北伐を託すということも考えたと思います。しかしながら、もともと国土は魏が蜀の三倍近くの大きさであり、時間が経てば経つほど蜀が不利になる上、劉禅が暗愚で享楽的であり魏と戦いたがらない中、自分の後継者として先帝(劉備)の意思を継げるものがいなかった点もあって、自分が生きているうちに何とかしなければならない状況だったと思われます。

才能だけでなく仁義を重んじる諸葛亮

諸葛亮を語る上でかかせないのは、劉備との仁義です。

冒頭にあった三顧の礼でも、当時は名を上げていて40歳になる劉備のほうから、無名で20歳の諸葛亮のもとを三度も訪れました。このような厚遇は、当時ではあり得ないことだったと言えるでしょう。

そして、皇帝である劉備の丞相となった諸葛亮は、劉備から最大の信頼を得ることとなり、劉備が臨終する際には、枕元に呼び寄せられ、以下のようなことを告げられます。

そなたの才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ 。

それに対して諸葛亮は涙を流して「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取り、国力で劣る蜀を全力で治め、先帝(劉備)の思いを継いで北伐を決行していくのです。

劉備も諸葛亮もなんともすごいことでしょう。劉備については、普通であれば自分の子を守ってくれというところですが、暗愚であれば諸葛亮が取って変わってくれて構わないと言います。それに対して諸葛亮は、終生、先帝の劉備と劉禅に仁義を尽くして、国力の弱い蜀をよく治め、本来であれば無理難題に等しかった北伐を自分が生きているうちに進めていくことになるのです。

北伐にあたっての「出師の表」は、後世においても名文として有名です。読んだ者で涙を流さない者はいないと言われるほどです。どれだけ才に溢れて人外の知恵者に思える諸葛亮であっても、血の通った人であり、情に厚い人柄がとてもよく感じられる名文です。是非、一度は読んでほしいと思います。

誡子書という名文

諸葛亮が残した書では、出師の表が圧倒的に有名ですが、私は「誡子書」という彼が子孫のために残した書がとても好きです。

夫君子之行 静以修身 倹以養徳 非澹泊無以明志 非寧静無以致遠 夫学須静也 才須学也 非学無以廣才 非志無以成学 滔慢則不能励精 険躁則不能治性 年与時馳 意与日去 遂成枯落 多不接世 非守窮盧 将復何及

諸葛亮 誡子書

澹泊:淡泊 寧静:安らか 滔慢:怠惰 険躁:騒々しい 窮盧:貧乏 非守:身の不幸を悲しむ

現代語訳

優れた人は、静をもって身を修め、倹約をもって徳を養なう。

淡白でなければ志は立たず、安らかでなければ遠くには至れない。

学ぶことはすなわち静であり、才はすなわち学ぶことである。

学ぶことがなければ才能を広めることはできない。志がなければ、学問の完成はない。 

怠惰であっては精進することができなくなり、騒々しくあっては性を治めることができない。

月日が流れるのは早く、意欲も日毎に去っていき、ついには朽ち果て世間から忘れ去られる。

とても深い言葉です。

約1800年も昔にこのような人がいたということに、今も昔も人々の生き方に変わらぬものを感じるとともに、諸葛亮の言葉には人ととして普遍的な教えが込められているように感じます。

三国志 Three Kingdoms

三国志は小説や漫画が有名ですが、映像としてはレッドクリフなどを抑えて、私の中では断然「三国志 Three Kingdoms」をおススメします。中国の作品でとても良くできていますので是非見てください。

ルー・イーの諸葛亮がとてもカッコいいです。

ちなみに、諸葛亮孔明と呼ぶ人がいますが、これは間違いです。諸葛亮か諸葛孔明と呼びことが正しいです。下の名前と字は一緒に読まないからですね。