生きる意味を与えるイデオロギーとは何か

人は生きる意味を求める生き物です。

今日は、生きる意味とは何なのかを考えていきたいと思います。

うわ、重たい!気軽に読めるの?

重たいです(笑)、興味ある人だけ読んでください!

人が生きる意味などもともと存在しないという説

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中国の諸子百家の一人、老子の言葉がヒントになります。老子は、紀元前500年頃の人ですが、現代にも通じる本質的なことが学べます。(老子についてはこちらの記事で詳しく書いています)

老子の教えの中に、道(タオ)というものが出てきます。道(タオ)というのは、宇宙の根源的なものを指し、人が行う営みのすべては、いずれこの道(タオ)の中に還っていくと説いています。そこから、結局のところ全てが宇宙の無と帰すのであれば、意味のあるモノなど存在しないと考えることができます。

宇宙というとてつもないスケールで考えたとき、小さな惑星の1つである地球の中のちっぽけな人間の存在が、何か意味があると考えること自体、人間の自己中心的な考え方ではないかと気づくことができます。

意味を求めずに本能のままに生きれば、争いは絶えなくなる

しかし、人は生きる意味を考えない場合、どうなっていくでしょうか。老子のような達観した人生観をベースに、謙虚さをもって生きていける人はほとんどいないでしょう。

つまり、多くの人にとっては、生きる意味が見つからない状態というのは、本能のままに生きるしかありません。

本能のままに生きるとは、こちらの記事にも書いたように、セロトニンなどの脳内麻薬を出すために生きていくことになります。それは、享楽的、刹那的、利己的な生き方となります。

そして、すべての人々が本能のままに生きれば、まるで狩猟採取時代と変わりません。お隣の集落同士でさえ争いは絶えなくなってしまいます。みんなが本能のままに生きた世界では、誰からも守ってもらえず、さらには争いが絶えない、とても辛いものになるのです。

イデオロギーを生み出すことで、集団で助け合う文化を作った

そのため、人類は、人々が本能のままに生きるのではなく、助け合って生きていく文化を作り出しました。これが、社会をまとめるためのルール(法律など)や信仰といったイデオロギーと言われるものです。

誰かを頂点とした集団を作り、人々に役割と存在理由を与えて帰属させ、お互いを助け合い、争いを抑制する仕組みを作ったのです。

人は集団に帰属して守ってもらい、返報性の原理からその集団へ貢献することで、自分は存在する価値があるんだという生きる意味を感じることができるようにもなりました。

このイデオロギーが発明されたことで、人類は種の繁栄という観点で大きな飛躍を遂げることになるのです。

たとえば、このイデオロギーが強く育ったヨーロッパは、その後に世界の覇者になっていきます。一方で、イデオロギーが比較的育たなかったインディアンなどは超個人主義であり、繁栄という観点では引けを取っていたといえます。

イデオロギーが揺らぐとき、人は新たな拠り所が欲しくなる

しかし、ルールや信仰といったイデオロギーにも揺らぐタイミングというものがあります。

信仰には、例えば天動説や神が宇宙を創ったなど信仰する上で信じられている物語がたくさんあります。しかし、こうした物語は、少しずつ科学の力によって本当の真実が証明されています。もちろん、すべてが科学で証明されたわけではありませんが、こうした科学の進歩が信仰に与えている影響というのは大きいでしょう。

ルールも同様です。ルールの最たるものは、王国制や資本主義といったものですが、ルールは格差を生み出したり、もっと強いルールによってのみ込まれることがあります。現代の最たるルールである資本主義についていえば、格差が拡大することによって今少しずつ揺らいできています。また、会社といった組織も立派なイデオロギーですが、もっと強いルールを持った会社に飲み込まれることもあります。

このように、集団に守ってもらい、その返報性として集団に貢献するという「生きる意味」を与えてくれるイデオロギーが揺らいでしまうと、人々は生きる意味を失い、不安を感じるようになり、新たな拠り所(イデオロギー)が欲しくなるのです。

哲学者エーリヒ・フロムの言葉として「自由とは孤独である。自由を享受するには、選択への責任と孤独を要する。人は、こうした孤独に耐えきれず自由から逃走し、隷属と依存の道を歩む」と人間の本質を説きました。

人は、孤独による不安に耐えきれず、イデオロギーという拠り所に入ることで、自らの自由をある程度放棄して集団に奉仕する代わりに、責任と孤独といった不安から逃れるとともに、生きる意味を得られているということです。

日本人は、今まさに拠り所を探している人が増えている

現代の日本は、まさにこの不安を多くの人が抱えているのでしょう。

もともと信仰は他国と比べて薄い上、経済は停滞し、格差も広がってきています。そして、昔のように良くも悪くもファミリーのように感じられた会社もなくなっています。こうした時代では、多くの日本人は、生きる意味を感じさせてくれる新たな拠り所を求めて彷徨っているといえます。

拠り所というのは、国家や会社やコミュニティということになります。こうした拠り所に帰属することで守ってもらい、貢献して生きる意味を感じたいのです。

最近、自身が所属する会社に社会貢献を求める人が増えているのは、より大きなイデオロギーである社会に帰属したいという欲求の表れだといえます。これは、逆説的には、社会そのもののイデオロギーが弱まってきていることの証拠ともいえます。

なお、大富豪で慈善事業をやっている人などの特殊な人々は、守ってもらう必要はないですが貢献はしたいと思っています。この人たちは、生きる意味を与えてくれる拠り所(イデオロギー)を探しているという観点では、ふつうの人と変わりはありません。

もちろん、拠り所をそこまで必要としない人たちもいるでしょう。そういう人は本能のままに生きている傾向が強いです。

本当のリーダーとは、自分で生きる意味を見つけ、他者に拠り所を与えられる者

多くの人にとっては、自分で拠り所を作るということは困難です。自分が作った集団に貢献して、自らも守ってもらうということです。

しかし、とても稀ですが、それができる人がいます。自分で旗を立てて組織を作り、その集団の中で助け合い、生きる意味を与えていける人です。こうした人は、本当のリーダーになれる人です。なぜなら指南役もなく、自分の道を自分で信じ、さらには自分だけでなく周りの人も巻き込んでいける勇気を持っているからです。

ちなみに、独裁やファシズムはイデオロギーではありません。これは、アメリカの元国務長官マデレーン・オルブライトの言葉です。独裁やファシズムとは、他の集団を生贄にして自分の属する集団を強化し、指導者が自身を“法を超越した存在”だと見なして権力を掌握する手段だからです。

本当のリーダーとは、自分で自分の生きる意味を見つけるとともに、他の集団を生贄にすることなく、他の人々に新たな拠り所を与えられる人なのです。

組織という単位で見たあるべき拠り所

そうした本当のリーダーは、人々を守るだけでなく、人々にとってその集団に貢献することで生きる意味を感じることができる拠り所を作る必要があります。これは、「いいね!」を集めるような承認欲求を与える場ではなく、人が根本的に持つ愛情を踏まえた奉仕の欲求を満たしてあげる場だといえます(奉仕については、こちらの記事に詳しく書いています)。

最近、ビジョンが大切ということをよく聞きます。それは、人々が欲しているこうした奉仕の欲求、つまりは集団から守られたい、貢献したいという生きる意味を与えるイデオロギーとして有用だからだと思います。しかし、そのためにはビジョンだけでは全く事足りず、もっと強いルールを持った会社に飲み込まれないように、その集団を存続させるための強い戦略が必要です。

今後の時代を担う上で、拠り所を作れる本当のリーダーには、こうしたビジョンと戦略性が求められているのだと思います。