広告に奪われる時間と脳のメモリ【日本は広告天国。電車の中の広告だけでもどうにかならないのか】

フィンランドの首都ヘルシンキ

広告のない美しいヘルシンキと、広告天国の日本

先日、フィンランドの首都であるヘルシンキについて調べることがあり、風景や文化についての情報を集めていたのだが、あまりの美しい街並みに目を奪われてしまった。バルト海に面するこの街は、海や木々といった自然環境と古くからの建造物、そして現代の文明が調和し、北欧の一大首都であるにもかかわらず、日本やアメリカの都市のようにごちゃごちゃしたところがなく均整が取れているのだ。どこを切り取っても絵になる首都に住んでいる人々は、自分たちの街にとても誇りをもって生きているんだろうなと思った。

それに比べて日本の都市の街並みは、狭いところにモノが溢れ返り、とても騒々しく感じる。特に目についてしまうのは、いたるところに張り出されてある広告である。日本の都内の街中であれば、どこを見渡しても必ず広告を見つけることができる。統一感のない派手な色合いで、大きなロゴや文字や写真を目にするはずだ。消費を喚起するために設置された広告たちは、華々しい色使いで無理やり私たちの目に飛び込んでくるように設計されている。

日本は広告天国である。北欧などと比べると、街中の広告に対する規制がとても少ないことが要因だ。フィンランドでは、広告を取り付けて良いスペースも決まっており、場所だけでなく大きさや色合いにまで、外観を毀損しないように制限されている。しかし日本では、特定の場所を除いてそのような規制はほとんどなく、広告主と代理店が競って派手な広告をつくっている。無理やり見せられる側への配慮など、そこにはない。

以前、イタリアで開催されたヴェネツィアビエンナーレという展示会に、「世界東京化計画」という作品が展示された。世界の名だたる都市に、東京のネオンや広告をコラージュするというユーモア溢れる作品で、世界の美しい都市たちが広告だらけに様変わりするのだ。広告で溢れ返った世界の都市たちは、すっかり「東京」になった。歴史ある美しさは完全に消え去り、騒々しい東京の街並みと何ら変わらなくなった。この作品を通じて、東京という異色な外観は、良くも悪くもこうした広告たちによって作り出されているということに気づかされた。

広告に奪われる時間と脳のメモリ。人生、大切に生きなきゃ

私は、普通の人よりも広告に好感を持っていない。もし、広告業に携わっている人がこのコラムを見ていたら気分を害してしまうだろうが、本当の気持ちだから仕方がない。私が広告に好感を持たないのは、広告が街の外観を毀損しているということだけが理由ではない。私の時間に対する考えがこうした感情を私に抱かせるのだ。

歳を取るにつれて、私は時間には限りがあるとつくづく感じるようになった。もっと意味のあることに残りの人生を使っていきたい、こうした焦りが根底にある。その焦りは、ピエロのような仮面を付けた死神が、両手に大きな鎌を持って近づいてくる様に近い。規則正しくゆっくりとした足取りは、余計、逃げることができない感情を抱かせる。

広告は、私の気持ちなど考えずに目に飛び込んできた挙句、美しくない絵と知りたくもない情報を見せつけてくる。少しでも目に入ってしまうと、わずかばかりの時間だけでなく、私の脳のメモリを少なからず消費させる。飛び込んできた文字を読んでしまい、記憶してしまい、考えて処理をしてしまうのだ。これこそまさに、広告の作り手の意図するところだろうが、その術中に見事にはまってしまう自分が悔しいのと、僅かといえど貴重なエネルギーが奪われて、とても残念な気持ちになる(商品に罪はないのだが)。

電車の中の広告は、本当に無くしてほしいと思う。街中だと自分が歩いているため、広告を見ないようにしていればさほど目に付かないのだが、電車の中だとどうしても自分が静止した状態となるため、目の前の広告が目に入ってくる。できれば、ゆったりとした気分で脳を休めたいのに、わずかな余力が奪われてしまう。

広告をアートだと考える人がいる。アートの定義はよくわからないが、そう考える人を否定したりはしない。しかし、それは見たい人が能動的に見るアートであってほしい。美術館で見るアートのように、見たい人が見にいけばいい。やはり私にとって広告は、アートというよりも、街中を爆音で走るバイクのエンジン音のように、騒々しいものというほかない。