現代のインフルエンサーとポピュリズムへの懸念

インフルエンサーの影響力というのは歴史的に見ても強大である

テレビのニュースでは、司会者や専門家と並んで文化人や芸能人がコメンテーターとして様々な時事問題にコメントしているところをよく見かける。コメントは、彼らでも意見がしやすい人々の生活に関連した事案に留まらず、専門的な知見が必要な政治や事件などについても「一般人と同じ目線を持った立場」からコメントしている。

しかし、一般人と同じ目線とやらでコメントする彼らは、本当に必要なのだろうか。彼らがいることでお茶の間から番組が共感を得られる側面はあるかもしれない。しかし、ニュースの本質的な目的といえる事実を正確に伝えるという意味では、彼らの存在は疑問である。専門性のない彼らの意見は単なる尺の無駄ということが言いたいわけではない。彼らがたまにする感情的で事実に基づかないコメントは、大衆をミスリードする危険性を孕んでいることが問題だと感じている。

こうしたコメンテーターは、インフルエンサーの一種である。インフルエンサーとは、自身の意見によって大衆の意思を左右する力を持った人たちのことで、以前はテレビや新聞といったマスメディアがその役割を独占していた。しかし、現代の社会では、スポーツ選手、芸能人、そしてSNS上で何万人というフォロワーを持った一般人でさえインフルエンサーの役割を担っているのである。

インフルエンサーの力は強大である。たとえば、戦前に日本が太平洋戦争に向かう最中、その行動を正当化し、大衆を戦争に導いたのはプロパガンダを広めた政府とマスメディアだ。ルボンの名著である群集心理でも述べられているとおり、政府のプロパガンダによって何度も同じメッセージを刷り込まれた大衆は、次第に自ら考えることをやめた。当時の日本人は、マスメディアを通して政府が発信する情報を鵜呑みにし、原爆という大打撃を食らうまで、ほとんどの人々が疑わずに従順に、時のインフルエンサーに追従したのである。

現代のインフルエンサーが厄介なのは盲目的なファンを持っているから

このような大きな悪事を働いているということを言っているわけではないが、大衆の意思を左右するという意味では、現代のインフルエンサーも同様の力を有している。SNSが台頭して以降、彼らの影響力はたちまちに大きくなっている。現代のインフルエンサーというのは、複雑な問題に対して、事実に基づき詳細な分析するのではなく、感覚的で分かりやすいメッセージに置き換えて単純化したものを発信することが特徴だ。それをファンがSNSで見て、情報を鵜呑みにするという構図である。

現代のインフルエンサーは、もしかすると従来のマスメディアよりも厄介である。それは、ファンというものは盲目的にインフルエンサーを信用するからだ。大衆は、スポーツ選手、芸能人、文化人に対して、その人の秀でた分野でまずは関心を持ち、共感してファンになる。そして次第に共感は強い好意へと移行していく。強い好意を抱くと、インフルエンサーが発信する情報はすべて信用したい、しなければならないといった気持ちが生まれる。これにより、ファンはインフルエンサーを盲目的に信用するようになる。それがインフルエンサーの専門外であろうと、事実に基づかない情報であろうと。ファンはまるで宗教の信者のようになってしまうのである。

ポピュリズムという言葉を聞いたことがあると思うが、まさにこのことである。大衆はインフルエンサーの発信した情報を鵜呑みにし、それが大きくなって世論となると、世間がおかしな方向へ動いていくのだ。国内外を問わず、選挙において、このようなポピュリズムを目にすることがあるだろう。この傾向は、スマートフォンの登場でいよいよ強くなったのだ。

大衆に自分で考えることを期待しても無駄な理由と行き場のない不安

基本的に、大衆というのは個々人が大きな知恵と判断力を備えるというのは不可能である。なぜなら、自分で知識を集めて考えるというのはとても面倒な作業なので、普通の人はやりたがらないからだ。自分では深く考えずに、物事を単純化してくれたインフルエンサーの意見をそのまま鵜呑みにしたほうが生き方として楽なのである。

和を以て貴しとなす日本人は、特にそういう傾向が強い。自分で知識を集めて判断するということは、他人と違う意見を持つということだが、日本人は幼少期から他人と違う意見を持つことは良くないことだと仕込まれてきている。他人と違う人は、仲間はずれにされ、痛い目を見る。そういう右向け右気質が強固に存在するのが日本であり、それなら多くの人が言っていることを鵜呑みにしたほうがよいとなる。

コメンテーターに限らず、大衆の人気を得ているインフルエンサーという人たちの考える力を上げることができれば、正しい方向に向かうことができるのだろうか。否、それは難しい。大衆に人気が出るからインフルエンサーになれるのであって、考える力がある人がインフルエンサーになるわけではないからだ。

こうしたことを考えると、ポピュリズムが台頭する民主主義は、この先、より危険な罠が待ち受けているといえるだろう。もちろん、大衆の民度がどうだろうと関係ない専制主義的な国家ではこのような心配はない。しかし、それはそれで指導者の判断に依存するため、多様性のない結果が待ち受けている。民主主義も専制主義も今後は大きな岐路を迎えるということだ。