日常の素晴らしさは失って初めて気づくもの
幸せになるためのコツは、日常の素晴らしさに気づくことから始まる。当たり前のように存在する日常は、実は当たり前ではない。しかし、私たちは愚かで、失うまでその恵みに気づくことができない。
以前、体調を崩して入院したことがある。病室は外の風景が見える5階の個室で、入院中はやることもなかったので街の風景をぼんやりと眺めていた。窓枠の中に広がっている風景は、私の心とは対照的に、澄みきった空のもとで清々しい風が吹いていたことが印象的だった。木々が揺れ、鳥が飛び立つ。散歩を楽しんでいる老夫婦や、数人で走る子供たちも見える。治療の具合によっては、もしかしたら手術を受けることになる自分にとって、その景色は懐かしくさえ感じる遠い日常に感じた。
私は、この日常をどれほど意識してこれまで生きてたのだろうか。思い起こせば、私は多くの時間を自分の想像の中で過ごしてきたように感じる。今ある日常には目を向けず、過去に生きて後悔し、未来に生きて不安であった。過去に生きても意味がないことに30歳を過ぎてようやく気付いたが、未来は今も厄介だ。未来に備えて努力をするというのは、生きていくうえで大切なことである。しかし、それはすなわち現在の日常を犠牲にしていることでもある。真面目な人ほど未来に備えて努力を続け、そのまま遺産を残して死を迎えているんじゃないだろうか。果たしてそれで人生を楽しめたのだろうか。
スマートフォンやパソコンの中のインターネット空間で生きている場合も同様に、日常のことはすっかり忘れ去られてしまっている。インターネットの空間の中では、人と触れあったり、地球の呼吸を感じることはできない。デジタルデバイスを片時も離さずにいる人をネット依存症という。ネット依存症は、体調不安や自律神経を損なう原因となる。ネットやゲームから得られる楽しみ自体を否定することはできないが、日常を蔑ろにすることは、身体にもよろしくないということだ。
小説のように日常を丁寧に感じてみたい
どこかで読んだエッセイに、なるほどと思ったことがある。そのエッセイを書いたのは有名な小説家で、その人がいうには、小説家の仕事とは、普段は何ともなしに通り過ぎてしまう日常から物語を作ることだというのだ。物語というのは、人の空想から自然に生まれてくるものではなく、日常生活の中で抱く些細な感情たちを丁寧に炙り出すことで生まれるものだそうだ。私たちが当たり前のものとしている日常に対して、真剣に向き合い、一つひとつの事象や感情を丁寧に解きほぐす仕事なのだろう。そうだとすると、日常を楽しむ術は、身近な小説から学べるのかもしれない。
たとえば、木々のざわめきや小鳥のさえずり、街の喧騒であっても、小説家の手にかかれば、見どころ豊かで味わい深いものに早変わりする。見かけの装いだけでなく、そこにメスを入れて内側の鼓動を描き出す。そして巧みな比喩を使って、感情的な描写をする。このような感性豊かな瞳で日常を見てみたい。きっと色んな発見をして、楽しいに違いない。
日常を楽しむために外に出る。そして太陽を浴びることで生きている実感を得るのだ。太陽を感じるたびに、人は太陽を浴びなければ自律神経を保つことはできないと強く感じる。太陽を浴びることで私たちは体内にビタミンDを生成することができ、このビタミンDは免疫力を高めてくれるそうだ。しかし、そんな科学的な根拠などどうでもいい。私は日常を感じたいのだ。