疎遠になってしまった友人たち
誰でも疎遠になった友人の一人や二人はいるだろう。いや、人によっては、疎遠になった友人の数は、もっとたくさんいるのではないだろうか。楽しかった学生時代や社会人の駆け出し頃に、貴重な体験を共に経験したかけがえのない友人たち。今では疎遠になってしまって、気軽に連絡することさえできない友人たち。
そんな友人たちを何かの拍子にふと思い出す。散歩をしているとき、雑誌を読んでいるときに、当時のことと一緒に友人たちを思い出すのだ。そして、少しだけ寂しい気持ちになる。
子供の頃に、文字通りに野山を駆けて遊びまわった友人たちがいる。泥だらけになって山の中を走り回ったり、野球やサッカーをして遊んだものだった。高校生くらいになると、電車や自転車を使って旅行にいったり、友人たちと地元から100kmほど離れたところまでヒッチハイクで旅に出かけたこともあった。社会人になると、仕事などで苦労が増えるにつれて、むしろ戦友と呼べるような友人たちもいた。
しかし、その友人たちとは歳を取るごとに疎遠になった。はっきりとした原因があるわけではなく、何かわだかまりが生じたわけでもなく、何となく連絡を取らなくなった友人がほとんどだ。たぶん、高校から大学へ、大学から就職へといった人生の節目で、お互いの環境が変わったことが大きな要因ではあったが、それだけではない。
確かに言えることは、友人たちと過ごした時間は私にとってかけがえのないものであったということだ。あの頃の光景は、今も私の中で燦然と輝いている。すべてが新鮮であった若い頃の体験は、私の中で強い光を纏っている。
友人たちと連絡を取ってもよいかもしれないと思うときは稀にある。しかし、自分から連絡をするのは憚られるし、たとえ声をかけられても動かない自分がいるように思う。友たちに再び会って思い出話に花を咲かせれば、きっと楽しいだろうと思う。でも、そうしないのである。
人生という列車の窓から見える景色
以前に読んだ本に、なぜ若い頃には時間の進み方が遅く、歳を取るにつれて速く感じるようになるのかということが書かれていた。その理由は、歳を取るにつれて新鮮な体験というものが減ることに関係するということだった。つまり、新鮮な体験が多いから、若い頃のほうが時間の進みが遅く、かけがえのないものに感じるということらしい。
私は、若い頃ばかりが輝いていたように感じる人間にはなりたくない。歳を取ってからの時間がとても速く感じるような人間にはなりたくないと思っている。そんな私にとって、過去の思い出に浸ることは後ろ向きな姿勢である。
私にとって過去は、列車の窓から外を眺めるときに通り過ぎていく鮮やかな景色たちと同じだ。列車の窓には、その時代の景色が目一杯に広がっている。しかし、その時代が終わると、その景色は遠く離れていってしまう。思い出の場所、その時代に生きていた私、そして共に過ごした友人たちの姿がセットになった過去の景色は、だんだんと遠く離れて見えなくなっていく。そして、新しい景色が次に見えてくる。
人生列車は、過去の景色に戻ることはできない。時間と同じように、人生列車は一方通行なのである。それゆえ、私は人生列車の行先を目新しい場所に設定していかないといけない。もちろん双眼鏡を使って過去を眺めることはできる。でも、過去を眺めていたら、目の前の新しい景色を新鮮なものとして味わうことはできない。今も刻一刻と新しい景色が過ぎていっているのだ。
私にとって友人たちと会うことは、過去の思い出に浸ることを意味する。疎遠になった友人たちと旧交を温めていると、昔の自分と同じ感覚に戻ってしまうからだ。誰にだって良き過去というのはノスタルジックで戻りたい場所である。しかし、昔の自分と同じ感覚に戻るということは、人生列車の窓から双眼鏡で過去を眺める姿に近い。決してそこまで否定的な気持ちになる必要はないと分かっているものの、私は人生に貪欲なんだろう。私は新しい景色が見たいのだ。
過去に栄華を極めたグループが、再結成したりすることもあれば、そうではないこともある。きっと、再結成しない理由は、私と同じように考える人がグループの中にいたんだろうなと思っている。